2026年5月16日、新潟大賞典(G3)。この伝統あるハンデ重賞を力強く制したのは、騙馬(セン馬)のグランディアでした。直線の激しい攻防のなかで見せた同馬の勝負根性と、最後まで途切れることのない集中力は、まさに「去勢による精神的成長」の賜物と言える素晴らしいパフォーマンスでした。
実は昨今、グランディアに限らず中央競馬(JRA)において騙馬の存在感は高まっているように思います。「気性難でどうしようもない馬への最終手段」というかつてのネガティブなイメージは完全に払拭され、陣営が意図的に競走馬のポテンシャルを最大限に引き出すための「前向きな戦略」として去勢が選択される時代へと突入しています。
近年騙馬が日本でどれくらいに競馬界で活躍しているのか、その背景にある「血統の飽和」「美浦と栗東の地域差」、そして「学術的に証明された去勢の効果」から「歴史に名を刻んだ騙馬たち」まで、多角的な視点で日本競馬における騙馬の実態を記します。
データが語る騙馬の増加と「血統の飽和」という構造
1-1:データとグラフが示す騙馬のシェア拡大と息の長い活躍

グラフの解説
青い折れ線(騙馬の割合): 各年の「産駒(生まれ年)」における、全頭数に対する騙馬の割合(%)を示しています。
オレンジの棒グラフ(重賞勝利数): 各年における騙馬の「重賞レース勝利数」を示しています。
データの傾向と注意点
- 騙馬割合の増加と直近の低下: 2010年代半ばから騙馬の割合は上昇傾向にあり、2017年〜2018年生まれの世代では約6〜6.5%に達しています。2022年以降の生まれで割合が下がっているのは、まだ馬齢が若く(2〜4歳)、これから去勢手術を受ける馬が含まれていないためと考えられます。
- 重賞勝利数の増加: 昔は年間数勝程度だった騙馬の重賞勝利ですが、2018〜2019年頃には年間12〜13勝と大きく増え、近年も年間10勝前後で安定して活躍していることが分かります。
- 横軸(年)について: 折れ線グラフは産年、棒グラフはレース勝利年を基準にしています。馬が重賞を勝つのは生まれてから数年後(主に3〜7歳時)となるため、産年のピークから数年遅れて勝利数のピークが来ていることも読み取れます。
年齢別の在籍割合を分析すると、デビュー前後の2歳〜3歳時における同世代の騙馬割合はわずか1.9%に過ぎませんが、4歳で3.7%、5歳で5.2%と上昇し、古馬になってからの去勢手術が顕著に増加しているのです。さらにこの割合は6歳以降も上昇を続け、9歳時には全頭数の約6.5%が騙馬というピークを迎えます。 これは「一度去勢された馬は極めて長く現役を続け、高齢になっても第一線で活躍できる」という事実を如実に物語っています。グランディアの新潟大賞典制覇も、古馬になってから心身の完成を見た騙馬ならではのサクセスストーリーと言えるでしょう。
1-2:騙馬増加の最大の要因
「血の飽和」と種牡馬事情 では、なぜ陣営は古馬になってから去勢という決断が増えているように見えるのでしょうか。その背景にある最大の理由が、現代日本競馬が抱える「血統の飽和」ではないかと思います。
現在の日本のサラブレッド生産界は、サンデーサイレンス系(ディープインパクト、ハーツクライ、キタサンブラックなど)と、キングカメハメハ系(ロードカナロアなど)の血で完全に埋め尽くされています。これは世界的に見ても血統の偏りであり、生産者は常に牝馬との交配において「血の多様性(アウトブリード)」を求めています。 そのため、かつてであれば「重賞を1〜2つ勝った」「G1で善戦した」といった良血馬が種牡馬になれた時代がありましたが、現在は異なります。同じような血統があふれている以上、G1を複数勝つような「歴史的名馬」クラスにならなければ、種牡馬入りしたところで牝馬が集まらず、商業的に全く成り立たないのです。
この厳しい現実により、馬主や調教師は「この成績ではどうせ種牡馬にはなれない」と早い段階でシビアに見切りをつけるようになりました。種牡馬としての価値(売却益や種付料)を追う必要がないのであれば、馬主にとっての最大の利益は「競走馬として1戦でも多く出走し、少しでも長く賞金を稼ぐこと」に完全にシフトします。そのための最も合理的かつ経済的な手段が、競走寿命を延ばす「去勢」なのではないかと推察します。
学術的にも証明される去勢の効果
競馬界における経験則だけでなく、獣医学や動物スポーツ科学の分野においても、去勢がもたらすメリットは数々の学術論文で明確に証明されています。大きく分けて以下の3つの利点が挙げられます。
① ホルモンバランスの変化による「気性・集中力の劇的な改善」 去勢により精巣が摘出されると、テストステロン(男性ホルモン)の分泌が激減します。多くの動物行動学論文で「テストステロンの低下により、雄馬特有の攻撃性や他馬への執着、発情行動が消失し、人間の指示に対する従順性とレースへの集中力が有意に向上する」ことが実証されています。競馬は精神力が大きく影響するスポーツであり、無駄な体力の消耗を防ぐ気性の安定はダイレクトに好走へと繋がります。
② 骨格の発育変化と「故障リスクの大幅な軽減」 生理学的に極めて重要なのが、去勢のタイミングが馬体の「成長プロセス」に与える影響です。骨の成長を止める「骨端線(軟骨部分)」の閉鎖は、通常テストステロンの分泌によって促されます。去勢を行うとこの閉鎖時期が遅れるため、脚の骨が牡馬のままでいるよりも長く成長し、脚長でスマートな体型になります。 同時に、牡馬特有の首回りや胸前の過剰な筋肉(前駆の重さ)が付きにくくなります。競走馬の最大の弱点は「細い前脚への物理的な負荷」による屈腱炎などの故障ですが、騙馬は前駆が軽くしなやかな体質になるため、脚元への物理的ダメージが劇的に軽減されるのです。
③ 統計が証明する「圧倒的なキャリアの長さ(競走寿命)」 国際的な学術誌に掲載されたサラブレッドの競走データ分析論文によると、牡馬の平均競走キャリアが「約38.6ヶ月」であるのに対し、騙馬の平均キャリアは「約50.9ヶ月」と、統計的に極めて有意な差をもって長いことが証明されています。前述した気性の安定と脚元への負担軽減が、そのまま「競走馬としての圧倒的な寿命の長さ」に直結しているのです。
歴史に名を刻むG1騙馬たちと、今後の展望
最後に、競走馬の頂点である「G1レース」における騙馬の活躍を振り返ってみましょう。
近年、日本のG1戦線において騙馬の脅威を最も強烈に示しているのは「海外からの刺客」たちです。記憶に新しいジャパンカップでのカランダガン(フランス)の活躍をはじめ、海外(特に香港や欧州、オセアニア)では最強クラスの馬が騙馬であることは全く珍しくありません。過去にも香港のロマンチックウォリアーやエアロヴェロシティなど、歴史的騙馬が来日して日本のトップホースたちを幾度となく撫で斬りにしています。
一方、日本の平地G1における騙馬の勝利の歴史を紐解くと、芝とダートで明確な傾向の違いが見て取れます。
芝のG1レースにおいて日本の騙馬が勝利したのは、なんと2002年のマイルチャンピオンシップを制したトウカイポイントまで遡らなければなりません。同馬も気性難から去勢され、マイル戦線で大きな花を咲かせた名馬ですが、それ以降20年以上、JRAの芝G1を勝った日本馬の騙馬は誕生していません。芝の最高峰では、アベレージの高さで勝負する騙馬には一枚高い壁となっているのが現状です。
対照的に、ダートG1においては近年でも騙馬の輝かしい活躍が目立ちます。 代表的な例が、2018年のフェブラリーステークスを上がり最速の豪脚で制したノンコノユメや、2016年のチャンピオンズカップをはじめ息の長い活躍でダート界を牽引したサウンドトゥルーです。 ダートレースは芝に比べて騙馬ののストロングポイントが生きてくるのかもしれませんし、ダートで活躍しても将来の種牡馬価値は日本では低い状況であることから、能力の高いダート馬でも去勢に踏み切りやすいのかもしれません。
■おわりに
2026年5月の新潟大賞典におけるグランディアの鮮やかな勝利。それは決して単なる「ハンデ戦での一発」などではなく、現代日本競馬の構造的変化(血統の飽和と馬主の経済的合理性)の一つと考えてよいでしょう。
「去勢」はもはや諦めやネガティブな選択肢ではありません。競走馬がその命を全うするまで、アスリートとして怪我なく、長く、そして力強くターフを駆け抜けるための「愛情と戦略に基づいた決断」だと思いました。

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